微小変化型ネフローゼ症候群、3回目の再発の入院記録

微小変化型ネフローゼ症候群の3回目の再発時の備忘録

【入院一日目】旅行かばんが、入院セットに変わった日

旅行に行く予定だった日、出発する前に、尿検査をしておこうと、家を出る予定の1時間前に尿検査をした。

 

 

 

発症から1年。
プレドニンという薬もかなり減ってきて、身体が楽になってきたところだった。その間に、再発を1回していたものの、それも乗り越えて、仕事も辞め、やっと療養生活に慣れてきて、「無職」も少しずつ受け入れてきたところだった。
1年間、頑張ったご褒美の旅行の出発日になるはずだった。心から楽しみにして、本当に本当に、言葉にならないほど、楽しみにしていた旅行だった。

 

楽しみにしていた旅行だからこそ、きちんと安全に行って帰ってきたい。いい旅行にしたいと思っていた。だから、検査をした。

 

「タンパク尿3+」

 

何度見ても、何度やっても、変わるはずもないのに、アルブスティックスだけでなく、検査用紙をとっかえひっかえして、何度も何度も1時間の間に尿検査を繰り返した。緊張が一気に高まったからか、頻尿になった。

 

頻尿もおかしいし、朝から下痢をしていた。旅行のために、少しおしゃれして、靴下もはいていた。久々に履いた靴下は、少しだけ、私の足に、痕をつけていた。目がかすむ、瞼が少し重い。

すべて、再発の兆候に思えてきた。

 

「見て見ぬふりをして旅行に行ってしまえば、1週間くらい耐えられるのではないか」「疲労していて、一時的な蛋白尿なんじゃないか」そんな言い訳が、頭の中を何度も何度も、ぐるぐると巡っていた。『ムーンフェイスが少し引いた顔で友だちに会いたい』そんな些細な願いが、叶えられなくなる、と思ったら恐ろしくなった。

 

何度検査しても、尿検査紙は、「黄色(正常値)」を示してくれなかった。

 

台風も来ている、島に行く、向こうで何かあったら、対処できない。医療従事者だからこそ、3回目の再発だからこそ、「再発」であったのならば、早めに受診しないと、これから、身体に水がたまり、浮腫み、歩けなくなる・座れなくなる・目が見えにくくなる・腹水がたまって下痢が止まらなくなる・体調が悪くなる、のは、わかっていた。本当に分かっていた。

 

twitterで、つぶやいた。

 

尿タンパク3+だったと。つぶやいた。
同じ病気を抱えている人たちが、ここぞとばかりに、声をかけてくれた。びっくりした。涙が止まらなかった。「再発」であるならば、本当に「再発」であるならば、歩けているうちに、食事がとれているうちに、薬で抑え込むのが自分のためでもあった。

尿タンパクに気付いたのは11:45頃。そこから1時間悩んで、救急にかかることにした。今から、病院に行けば、「再発」じゃなければ、旅行に行ける。そんな思惑を、希望を胸に抱え、旅行かばんを車に載せ、救急外来にかかった。

 

twitterの声に支えられ、救急外来に到着。もっと待つかと思ったが、すぐに呼ばれ、看護師さんから情報収集をされ、救急医から情報収集をされ、尿検査と血液検査を行うことになった。午前中に何故これなかったのか、看護師さんから聞かれたが、旅行に行くためだったため、その直前に尿検査をして尿タンパクが3+だったから、再発でなければいいと思い、旅行かばんを積んだまま来たことを話した。

 

動悸がした、涙が出てきそうになった。でも、またこの時点では、私は旅行を諦めていなかった。何時の電車に乗れば、飛行機に間に合うのか、何時に病院を出てどの駅から行ったら、ギリギリ間に合うのかを頭の中で一生懸命考えて、調べていた。

 

尿検査をした。便器の中を見ると、尿が泡立っていた。明らかに。それでも、私は諦められなかった。血液検査のために、留置の針を入れられた。前回の入院の時のことが頭をよぎった。留置の針が、両手に刺さったまま過ごした2週間を。

何故、針を残されたんだろう。手枷のように感じた。この針を外してもらえなかったら、どこにも行けない。コンビニすら行けない。

 

検査結果が出るまでには1時間かかると声をかけられた。

 

一人では、不安を抱えきれず、twitterに投稿し続けた。汚い気持ちを吐き出し続けた。公共の場に、ゲロを吐き続けるように、投稿し続けた。たくさん励ましてくれる人がいた。旅行に行きたいという気持ちが、止まらなかった。「再発」していたら、プレドニンが増える、抑うつ症状・筋力低下・食欲増進・ムーンフェイスなどなどなど、副作用に苦しむ期間がまた来る。私の身体は、副作用が強く出やすいと言われている。

 

「もう勘弁だ」
「もういやだ」
「もう耐えられない」

 

ずっとそう思っていた。前回の入院から、「次、再発したら、こころが耐えられる気がいない」ずっとそう言っていた。

検査結果が出た、尿タンパク3+だった。間違いじゃなかった。アルブミンは、3.7だった。いつもは、3.9くらいで、正常値より少しだけ低いのが私の通常の値。「アルブミンが下がってきているから、むくんでいるんだ。」再発のサインが、どんどん揃っていく。

 

腎臓内科の先生が、手術の合間をぬって駆け付けてくれた。
「再発ですね」
分かっていたが、それでも、受け入れられず、私はすがった。

 

「薬増やさないといけないですよね。」
「今日入院した方が…いいんですよね。」
「旅行に行く予定だったんですけどね。荷物があって丁度良かったです。」

 

そう、わかっていた。でも、否定してほしくて、必死にすがってしまった。

 

先生も、それを感じて、
「今日じゃなくてもいいですけどね。」
「都合がいい時でいいですよ。」
「薬は増やさないと、また、前と同じ状態になっちゃいますね。」
と、無理に『今日』入院させようとはしなかった。私が、受け入れるのを待っていてくれているようだった。ひとしきり、聞いてもらって、駄々をこねる子どものような私の言葉を受け入れてもらって、私は決断した。「今日、今から入院します。お願いします。」と。旅行を諦めた、友だちに九州で会うのを諦めた瞬間だった。

また、ムーンフェイスになる覚悟、ステロイドうつで頭がおかしくなる覚悟、をした瞬間だった。吐き気がした。我慢していた、涙がポロリと、こぼれた。目の中で留めておきたかった涙が、少しおしゃれした緑のワンピースにポタリと痕をつけた。

 

友だちに、すぐ連絡をし、キャンセルできる状態でなかったので、キャンセルの電話を頼んだ。まともに、メールも打てなかった。友だちが、医療従事者で、私の状態を想像することができる、友人だったのも幸いして、すぐに受け入れてくれた。「身体が一番だからね。」と、返事が来た。

 

数時間後に飛び立つ、飛行機のキャンセルができるのか、調べようとしたが、頭が回らず、結局出来なかった。この日、夫は当直の日で、明日の朝まで帰ってこない日だった。助けてもらうことは出来ないかもしれない、と思いながら、夫の職場へ連絡した。すぐに繋がった。

「ごめん。再発した。今から、入院になるの。頭が回らなくて、助けてほしくて、連絡したの。当直だから、無理だと思うけど、一人じゃ抱えきれなくて、電話したの。ごめん。」

夫は、旅行に行っているはずの私から電話がかかってきたことに驚き、「わかった。行けるか分からないけど、調整してみる。また連絡する。」と、サッと電話を切った。私は、少しほっとした。夫に話したことで、入院することが一気に「現実」になり、私は、その場から動けなくなった。スマホの電池は一桁になっていた。

申し訳ない気持ち、に襲われた。左手に刺さった点滴がズキズキと痛んだ。

 

そのあと、救急のベッドで、移動式の心電図・レントゲンを使って、検査をされた。「あぁ、私、救急の患者になったんだ」と思った。私は、再び「患者」になった。

 

「歩けますか?」
「苦しくないですか?」
「身体しんどくないですか?」
「痛みはないですか?」
「荷物持ちますよ」

さっきまで、旅行に行こうとしていた私は、「患者」になったのだ。歩ける、痛くない、しんどくない、何もないのだ。どんどん、「患者」になってゆく。「(ぁぁ、本当に嫌だ)」何度も、心で唱えた。

 

車から、荷物を取り出し、入院に必要ないものを助手席にどんどん出していった。香水・カメラ・三脚どんどん、「今の私」にいらないものを、助手席に放り投げていった。「五島列島」の本は…投げ捨てれず、かばんから出して、またかばんに戻した。「入院中に見よう。退院したら、行くんだ。20日後に行けるかもしれない。20日後なら、顔がまだ腫れてないかもしれない。」そんな夢を見ながら、プレドニン40で目がかすむだろうに、筋力も落ちるだろうに、そんなことを思いながら、かばんに本をしまい込んで、救急外来に戻った。

自分で持とうした荷物は看護師さんが、軽々と持ち、私はスタスタと歩いて行った。「車いす持ってきましょうか?」と聞かれたが、断った。私は歩ける。なんなら走れる。「患者」になることを、私の心が全力で拒否していることが自分でも、よくわかった。

 

案内された病棟は、循環器の病気を持っている人が多く入院されている病棟だった。廊下には、歩いている患者さんはいない。病室を見ると、70…いや、80代、もしくは90代であろう、おじいさん、おばあさんが寝ていた。

歩いている人は、やはり、その後も、ほとんどいなかった。ワンピースで、歩いている人はいなかった。お見舞いに来ている人たちも、わたしより年上だった。

 

ベッドに案内された。「ここは自立の方のお部屋ですから。」そう言われた。70代、80代のおばあさん2人と一緒の3人部屋だった。1年で3回目の入院。荷物を整理していった。もう、慣れている。夫から連絡が入った。「今から向かう」と。

必要なものを伝え、持ってきてもらえるように頼んだ。夫も、私も、私が入院することに慣れていた。あっという間に、夕方になり、食事が出た。

「ぁぁ、入院したんだ」

そう思った。ご飯を食べながら、そう思った。

「今日、帰れないんだ」

そう思った。ただ、そう思った。飛行機は、もう飛び立っていた。8,000円のチケットは、紙切れとなったのだろう。

 

私は、体の不調を感じることなく、この日は眠りについた。頭がおかしいのは、わかっていたので、友人にそれ以上連絡することは控えた。最低限で留め、殻に閉じこもった。入院初日にやったことは、Wi-Fiのレンタルだった。セルフバックで、1000円引きで、1か月のポケットWi-Fiをレンタルした。入院を徐々に受け入れ始めた自分を自覚した瞬間だった。

 

私は、往生際が悪いのだ。

 

この日は、特に不調を訴えていない私に対して、看護計画をどう立てるのか、看護師さんたちが困っているように見えた。浮腫んでいるというほど、浮腫みもない、痛みもなにもない。服薬もできる。調子が悪くなるのであれば、薬が増えて、効いてきて、副作用が出てきたときに、調子が悪くなる。わたしは、これから、副作用で調子が悪くなるのだ。

 

やることがなかったからか、薬は、一部預かりになって、看護師さんの管理になった。自己管理できないわけではにのに。加算だろうか。もう、どうでもよくなった。そして、少しのイライラが残った。